猫殺し問題その2――倫理とは果てしなきグレーゾーン
坂東眞砂子氏の猫殺し問題についてもう少し語ってみよう。前の記事ではどちらかというと殺し自体の是非よりも「語ることそのもの」に対するメタな話をしたけれども、今回は猫殺しの倫理そのものについて。
まず、坂東氏を批判する人は「倫理的にいけないものはいけないのだ」、という人がほとんどだろう。しかし、倫理とはそんなにも万人に対して自明なものであろうか?
例えば、それは猫だけでなく、当の人間においても同じである。現在のアメリカで中絶の是非が長いこと論争の対象になっているが、そもそもカトリックでは中絶どころか、以前は人工的な避妊さえ自然(神)の摂理に反するものとして禁止されていた。現在でも原理主義的な団体では認められていないという。
また、逆に日本においては当然のように嬰児殺しによる間引きが行われていた。(日本の間引きについては「反社会学講座」のこちらを参考にどうぞ。)そして現代の日本は中絶大国と呼ばれるほど中絶が日常的・合法的に行われている。
倫理とは、時代や、文化のちょっとした違いによって如何様にも変わる、その程度の物なのだ。自分の倫理に反するからといって駄目なものは駄目だと言う人にはこの言葉を。
「お前は俺じゃない」。
結局の所、各々がどこまでも続く倫理という名のグレーゾーンに対して恣意的に「ここまでが白でここまでが黒」と線を引くしかない。であるならば、せめてその線を引いたことに対して自覚的に「何故○○が駄目で○○が良いのか」と考えるのが最低限の他者に対する礼儀というものだろう。
それが論理というものの持つ力だと、思う。
ちなみに、坂東氏の「生」に対する論理展開に違和感を感じて非難する人達には全く同意。自己正当化の手段としてはあれはあまり出来の良い物ではないですな。*1
*1:まぁ、猫を堂々と殺す理由があれだけ脇の甘いものだった、というのもこれだけ批判が広がった理由だと思います。