作家が語ることの政治性とテクスト論
坂東眞砂子氏の子猫殺し問題について。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/770743.html
これまでこのブログでは政治性*1の高い話題について全く言及してこなかったわけだけれども、一応読書感想をメインコンテンツとしている、と言うことでちょっと言及してみようと思う。
この問題に関して、「こんな文章を載せた日経新聞の品格を疑う」といった声もあるが、それはどうか。新聞の記事とは執筆者が思うように書けばそれがそのまま載ると言う訳ではなく、編集者の意向や検閲が必ず入った物が新聞には載る。(具体例として森博嗣氏が新聞社にエッセイを依頼された際、新聞批判の内容を書いたら編集者に没を喰らった、という話がある。)当然、今回の記事も、日経新聞編集者のフィルターを通過している筈だ。そうである以上、今回のこの記事は単に作家が無邪気に身辺を語ったというよりは、確信犯的に政治的な発言を行った、と見るべき。
これ読んで「この鬼畜!」とか「この作家の本は2度と買わね〜!!」とか脊髄反射的な反応をするのは作者に完全に釣られている。新聞に掲載されている以上、この文章は「商品」であり、それを書いた行為は「仕事」である。であるならばこの文章は例えエッセイであっても、作家個人とは切り離すべきだと、私は思う。*2
ここで文芸批評の一手法として、テクスト論を浅学ながら引き合いに出してみよう。テクスト論とは、ある文学作品に対して、その作品そのもののみを批評対象として扱い、例えば作者自身の作品への言及を批評の材料として取り扱わない、という手法である。極言すれば、例え作者が「この作品は○○がテーマです」「この作品で私は○○と伝えたかった」と直接言及していても、そう読まない(という事があり得る)、という事だ。
これは、「作者の言いたい事なんてわかりっこない」という読者側からの要請*3と、「作品を今まさに書いている時点での作者と、その作品に言及している時点での作者が同じ(意見を持った)存在とは限らない」という作者側にある問題点の解決、という2つの成立根拠を持っている。*4
さて、そのテクスト論を前提として考えてみると、「商品」として出された今回の文章と、作家本人は切り分けられる、とも考えられる。「こんなブサイクな顔でモテなかったから酷い事書けるだろう」とか言うのは見当はずれだろう。
そもそもホラー作家の書いた文章を100パーセント鵜呑みにする事自体どうかと。残虐なミステリやホラーを読んで「この作者は犯罪者予備軍」と言うのと同じくらいしょうもない事じゃないか?
どうも一般に作品と作家を結びつける人が多いが、別に作家がどんな思想だろうと、顔面だろうと、職業だろうと、年齢だろうと、作品の評価には全く関係が無いと思うのだが。(特にエンタテイメント作品で、)作品と作者を同一化するのは全く意味のない行為だと思う。
さて、ここまで書いて結局、「作家の書く事は全てネタだと思った方が良い」という散々既出な結論になってしまったわけだが。詰まらんこと書くなぁ、俺。
多分続く。