国家の品格

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)


評価:2/10点
ベストセラーもどんなに酷い内容でもちゃんと教養として読んでおかないとな、と思って購入したのですが予想通り本当に酷い本でした。はてブだった[これはひどい][寝言]タグを付けてますね(苦笑)。もう1〜2ページに1回は突っ込み可能。逐一突っ込むのも面倒なので2つの論点に絞って書いてみたいと思います。

  • 国家を語ることに対する不用心さと無邪気さ

取り敢えずこの作者は非常に無邪気な人だな、と思いました。何せ数学者が天下国家を語るのですから。しかも養老氏等はある程度自分の専門分野の知識・見解を拡大して一般論を語りますが、この人はそれすらしない。精々自分の過去の個人的な経験談から一般化してみせます。
確かに国家論は誰にでも語れます。政治を学べば政治的に国家を語り、教育を学べば教育の側面から国家を語り、経済を学べば経済状態から国家を語れます。しかしその間口の広さ故、「国家」を語る際には側面から突っ込まれる脇の甘さを自覚しなければならないと思います。その点、この人は非常に脇が甘い。ろくにデータを示さないままほとんど個人的な経験のみを根拠に経済を語り、教育を語り、歴史を語り、文学を語り、そしてそこから国家を、そして世界を語る事が出来るのは、ただひたすらに無邪気なのだな、と。
そして今後の日本、そして世界において正しいのは「資本主義」でも「共産主義」でもそして「民主主義」でもなく、「一部のエリートによる情緒による政治」だとか。ああもう本当に無邪気だなぁ。どうしてこういう天下国家を語る人達は封建社会を過剰に美化するのだろう?誰か教えて下さい。

  • 「論理」の不完全さを証明する事に対して論理を用いる事の矛盾

この本のメインテーマの一つが「近代合理主義」批判。要するに論理性ばっかり重視してちゃ世界は駄目になるよ?と。これを数学者が言い切ってしまうんだから(ある意味)非常に面白い。しかもこれ、「教育」「経済」「政治」全てのタームで実践するべき、とくるのだからどうしようもない。
一歩譲って教育、特に初等教育の場で論理性よりも情緒を優先するべき、というのは許せるとしても、政治・経済の場で論理性軽視は駄目でしょ。この人は「共感」出来るけど「理解」出来ない政策を支持するのか?
そもそも著者は「論理」の不完全さを示すためにそれを「論理的に」説明しています。まぁ、それも大半は具体例を挙げての反証という全く稚拙なものですが。著者は論理性というのは純粋数学を用いた自然科学上でしか通用しない、という暴論をぶち挙げています。全ての社会科学に対する挑戦です。
著者は、その根拠として4つの理由を挙げています。これを簡単に批判してみようと思います。

  1. 論理の限界
    • 著者は、人間の考える「論理の限界」として「お役人が必死に論理的に考えた政策が決定的に間違っていること(例えば小学校での英語教育)」を挙げています。
      • この人は本当にアホなんじゃないでしょうか。「論理的に政策を考える事」と「政策が間違っている事*1」に相関関係が全くありません。論理的に考えれば絶対にこの政策になる、とでも思ってるのでしょうか。論理とはあくまで説得の為のツールであり、条件を代入すれば唯一の解が出てくるブラックボックスでは無いのですが。
  2. 最も重要なことは論理で説明できない。
    • 著者は論理の破綻理由に「数学の不完全性定理」と「論理では人殺しは何故いけないかを説明できない」事を挙げています。
      • 論理よりも倫理を、というのはあまりにもありきたりですが。説明できないことを人に無理矢理押しつけるのは馬鹿のする事だと思います。確かに「野に咲くスミレの美しさ」を論理で人に説明するのは困難ですが、だからといってそれを「スミレは美しいから美しいんだよ!解れよ!」と押しつけられても困ります。
  3. 論理には出発点が必要
    • 著者は「数学の論理は出発点が公理だから最初で躓く事はないけれど、文系の論理は出発点がそもそもその人の価値観によるものだから論理的に正しくても出発点が間違っていれば結論も間違える。」と述べています。
      • だから何?と。何を当たり前の事を言ってるのでしょうか。そういうのは言われなくても普通の人は「牽強付会」と呼んでちゃんと白い目で見ます。
  4. 論理は長くなり得ない
    • 著者は「論理の筋道が長くなると確率的な不確実さが増し(風が吹けば桶屋が儲かるの誤謬)、逆に論理の筋道が短くなると薄っぺらくなる」として論理の無意味さを説きます。
      • この人は論理の使い方がA→B→Cといったフローチャート式の一方通行なものしかないとでも思っているのでしょうか?政策の必要性を訴えるのに理由が1つだなんてあり得ません。当然複数の統計等のデータの提示や、反証を沢山用意している筈です。ワイドショーの見過ぎなんじゃないでしょうか。

そもそも社会科学において唯一絶対の真理なんてありゃしません。政治学だろうが、法学だろうが、文学だろうが、哲学だろうが、「論理的に考えれば絶対にこの答えになる」なんてことはありえません。論理とは、あくまで思考し、それを他者に伝えるためのツールに過ぎない訳です。著者はそこを決定的に勘違いしているのではないでしょうか。数学における論理とは事の真偽を証明する真偽判定機のようなものなのでしょうが、社会科学の論理とはそんなものじゃありません。社会科学における真偽とは時代や社会や文化によって如何様にも変化する、相対的なものです。そして論理とはそんな曖昧な真偽判定に対して少しでも説得力を持たせ、他者を納得させるためのツールでしかないのです。
何か自分の信じていた価値観(数学・論理)がちょっと世間で通用しなかったからといって一足飛びにカルト宗教(情緒・武士道精神)に嵌っちゃった、って感じで非常に気持ち悪いです。また、こんだけ論理の不確実さ、無意味さを強調しておきながら「教育で大事なのは国語と数学」とか言っちゃうのはこれまた本当に無邪気だな、と。


これだけ適当に主観と印象論で書いた鼻くそみたいな本がベストセラーになってしまうのは本当に世も末ですね。

*1:そもそも間違いと判断するのも著者の全くの主観、と言う時点で突っ込みどころ満載。